阿部信行(あべ のぶゆき)は、軍人出身の政治家で、第二次世界大戦前夜に短期間内閣総理大臣を務めた人物です。
軍部の影響が強まる中、戦争拡大を抑えようと奮闘しましたが、時代の流れには逆らえませんでした。
本記事では、阿部信行の生涯、内閣の概要、政策、そして評価について詳しく解説します。
阿部信行の人物紹介
簡単なプロフィール
阿部信行(あべ のぶゆき)は、1875年11月24日に石川県で生まれました。日本陸軍に入隊し、軍人としてのキャリアを積んだのち、戦時下の内閣総理大臣を務めました。
阿部は平沼騏一郎の後を受けて、1939年8月30日から1940年1月16日まで内閣総理大臣として活動しました。
平沼騏一郎については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・平沼騏一郎は何をした人か?太平洋戦争下での役割とその歴史的意義
どのような政治家だったのか
阿部信行は、軍人出身の政治家として、国際情勢が緊張する時期に政権を担いました。特に第二次世界大戦勃発の直前という困難な時代において、外交と軍事政策の両立を目指した人物です。
彼の内閣は短命でしたが、戦争回避の努力を見せた政治家として評価される一方、時代の流れに逆らえなかった点も指摘されています。
阿部信行の略歴とキャリアの軌跡
阿部信行(あべ のぶゆき、1875年~1953年)は、昭和初期から戦中期にかけて活動した陸軍軍人・政治家であり、第36代内閣総理大臣を務めた人物です。
軍人出身でありながらも、政治的に中立的な立場を取ったことで知られ、短期間の首相在任ながら後世にさまざまな評価を残しました。
特に「戦争を終わらせようとした首相」という観点から議論されることが多く、功績・批判の両面で歴史に名を刻んでいます。
出自と軍人としての歩み
阿部信行は1875年、山口県に生まれました。長州藩の流れをくむ軍人一家に育ち、若いころから軍人としての道を志します。陸軍士官学校を経て、日清戦争・日露戦争の経験を積み、実戦経験と軍務能力の双方を磨きました。
特に参謀本部や陸軍省での勤務を通じて、作戦立案・軍政面に精通する人物として評価され、同時に国際情勢への理解を深めていきました。将官としての昇進後は、陸軍次官や教育総監といった重要ポストを歴任し、陸軍内でも「調整型の軍人」として存在感を発揮しました。軍人としては突出した武断派ではなく、むしろ理性的・中立的な姿勢が特徴だった点が、後の政治的役割にも影響を与えます。
政治家・総理への道
阿部が本格的に政治の舞台へ登場するのは、1930年代後半です。昭和天皇の信任を得て、1939年8月に第36代内閣総理大臣に就任しました。阿部内閣はわずか1年足らずで退陣しますが、この短期間に示した政策姿勢は、後世に「阿部信行 評価」を考える上で大きなポイントとなっています。
首相就任当時、日本はすでに日中戦争が長期化しており、国際的孤立が深まるなかで、陸軍・海軍・政党勢力の思惑が複雑に絡み合っていました。阿部は「軍部の強硬論と政党の利害の間を調整する首相」として期待されたのです。
阿部内閣は、対米英関係を悪化させないように留意しつつ、中国戦線の拡大を抑制しようとする姿勢を見せました。しかし軍部の圧力は強く、実際の政策決定は困難を極めました。こうした背景の中で、阿部は「戦争を拡大させたくないが、止めることもできない」という立場に立たされ、その政治的限界が浮き彫りとなります。
戦前~戦中期の立場と思想傾向
阿部信行の思想傾向を一言で表すならば、「穏健派」「現実主義的軍人政治家」といえます。陸軍出身でありながら、拡張主義や急進的な軍国主義とは一線を画し、むしろ国際協調や内政安定を重視する姿勢が見られました。
阿部内閣期の発言や政策からは、「戦争を全面化させることは国益に反する」という冷静な判断が読み取れます。特に対米関係では、衝突を避けたいという意識が強かったとされます。しかし、強大化した陸軍の発言力や、時局に流される世論の中では、その穏健な姿勢は「弱腰」「決断力に欠ける」と批判されました。
その後、首相退陣後は朝鮮総督などを務めますが、戦後には戦犯容疑を問われることなく、公職追放も短期間で解除されました。これは「阿部信行 評価」が、軍国主義の推進者というよりも「戦争を終わらせようとしたが、実現できなかった首相」という見方で整理されていることを示しています。
阿部信行 内閣(1939-1940年)の政策と外交姿勢
就任時期と背景
阿部信行が内閣総理大臣に就任した1939年(昭和14年)は、世界が第二次世界大戦へと突入する直前の緊張期でした。国際連盟を脱退するなど国際的に孤立を深めていました。
※なお、国際連盟脱退について以下の記事で詳しく解説しています。
日本の国際連盟脱退:1933年の松岡洋右外相と斎藤実内閣による決断とその背景
ドイツがポーランドに侵攻し、欧州は戦火に包まれつつあり、日本もまた日中戦争の泥沼化に直面していました。阿部内閣は、こうした国際的・国内的な危機の中で成立した「調整型内閣」として特徴づけられます。
阿部の内閣運営は、軍部や政党勢力の圧力を受けながらも、可能な限り戦線拡大を避け、外交的な道を模索しようとした点に特徴がありました。しかしその試みは成功せず、わずか1年足らずで退陣に追い込まれます。
以下では、阿部内閣の課題と政策、外交姿勢、そして挫折の要因を整理します。
就任直後の国内状況と課題
物価高騰・資源不足・社会不安
阿部内閣が直面した最大の国内課題は、長期化する日中戦争に伴う経済悪化でした。軍需拡大による物資不足は深刻化し、米や衣料品など生活必需品の価格は高騰、国民生活に大きな負担を与えていました。
また、鉄鋼や石油など戦争遂行に不可欠な資源の確保が難しくなり、輸入依存の経済構造が脆弱さを露呈しました。この「物価高騰・資源不足・社会不安」という三重苦は、阿部内閣の支持基盤を揺るがし、後の退陣要因の一つともなりました。
軍部との調整と“政治的無色性”の評価
阿部は陸軍出身の首相でしたが、軍内で特定の派閥に属さない“政治的無色性”を評価されて登用されました。これは一見、中立的で調整型の資質とみなされましたが、裏を返せば「決断力に欠ける首相」と批判されやすい土壌でもありました。
陸軍と海軍の対立を調整する役割を担いながらも、軍部の強硬論を抑える力は弱く、結局は軍部の意向に左右される場面が目立ちました。この点は「阿部信行 評価」の中で繰り返し取り上げられる弱点です。
対外・外交政策の方向性
日中戦争・中国問題へのスタンス
阿部内閣は、中国戦線の全面拡大を避けようとしました。戦争が泥沼化する中で、講和や停戦の可能性を探る姿勢も一部に見られましたが、軍部は強硬に反発し、現実的に戦争縮小は実現できませんでした。
特に「国民政府を相手とせず」とする近衛声明が既に発表されていたこともあり、中国側との和解の余地はほとんどありませんでした。阿部の穏健的な姿勢は「腰が引けている」と軍部や世論から批判を受け、内閣の弱体化につながりました。
日米関係・英米への接近・離反構想
国際的に注目されたのは、阿部内閣の対米英姿勢でした。阿部は、ドイツ・イタリアとの提携強化を急ぐ軍部の動きを警戒し、むしろ英米との関係悪化を避けたいと考えていました。
一部には「阿部は日独伊三国同盟に否定的だった」とされる見解もあり、この点は後世の「阿部信行 評価」で肯定的に語られる部分です。しかし当時、軍部と世論の多くは枢軸国寄りの政策を求めており、阿部の外交路線は孤立しました。
内閣の挫折と退陣要因
軍部の抵抗・政策対立
阿部内閣の最大の障害は、軍部の強硬な抵抗でした。特に陸軍内部では、阿部の穏健外交に不満が高まり、対外強硬策を取るよう圧力を強めていました。内閣の閣僚人事や政策方針をめぐって軍部と対立し、政権基盤は急速に不安定化しました。
阿部は軍部に一定の配慮を示しつつも、最終的には独自の外交方針を貫く力を持てず、「調整型首相」の限界を露呈しました。
大衆世論・国会・政党勢力の動き
さらに、政党や国会においても阿部内閣は支持基盤を欠いていました。政党政治の復活を望む声と、軍部主導を望む声の間で中途半端な立場を取ったため、いずれからも強い支持を得られませんでした。
世論も「戦争を終わらせたい」という声と「強硬に戦うべき」という声に分かれていましたが、阿部内閣はどちらにも応えられず、結果的に「優柔不断」と映りました。その結果、1940年1月に退陣に追い込まれることになります。
まとめ:阿部信行内閣の評価
阿部内閣は、日中戦争の拡大を抑え、英米との対立を避けようとする「穏健的・調整的な姿勢」を見せました。しかし、強大化した軍部や二極化した世論の中では有効な成果を残せず、短命に終わりました。
「阿部信行 評価」を考える上で、この内閣期は「戦争終結を模索したが、時代の荒波に押し流された政権」として位置づけられます。功績と限界の両面が混在する点が、今日に至るまで評価を分ける理由です。
評価・批判・後世への視点
阿部信行は「戦争を終わらせようとした首相」として記憶される一方、その限界や批判も少なくありません。戦前・戦中の複雑な政治状況の中で、彼の姿勢や政策は功績・失敗の両面から議論され続けてきました。
ここでは、その評価と批判、さらに近年の研究による見直しの動向を整理します。
功績として評価される点
軍政の中立性・調整役としての期待

阿部は陸軍出身でありながら、特定の派閥に属さない「無派閥・無色の軍人」として知られていました。この政治的中立性は、軍部と政党、さらには海軍や宮中勢力の間で対立が激化する時期において、大きな期待を集めました。
「阿部信行 評価」を肯定的に捉える研究者は、彼の首相就任が「軍部一極化を防ぐ安全弁」として機能したことを指摘しています。内閣の短命にもかかわらず、調整役としての存在は、一定の意味を持ったと評価されています。
外交的道筋の試み
阿部内閣の外交姿勢も、後世の功績としてしばしば取り上げられます。とりわけ日米関係の悪化を避け、枢軸国寄りの外交に歯止めをかけようとした姿勢は、今日の視点から「平和的選択肢を模索した」と評価されます。
具体的には、英米との衝突回避を重視し、中国戦線の全面拡大を抑制しようとする動きが見られました。結果的には成功せず満州国も維持されましたが、当時の国際環境を考えれば「戦争を回避しようとする意思」を示した点で功績とされます。
満州国の維持を優先し、中国との戦争を継続する路線を維持しました。
なお、満州国建国については、以下の記事で詳しく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
愛新覚羅溥儀の生涯と満州国:清朝最後の皇帝が辿った道を徹底解説します
批判・限界・否定的評価
実現力・リーダーシップの欠如
批判的な評価の多くは、阿部の「実行力不足」に向けられています。首相としての方針は穏健で理性的でしたが、それを具体的な政策として実現する力には乏しく、軍部の圧力を抑えることもできませんでした。
そのため、調整型の性格が「優柔不断」と映り、短命政権に終わった原因とされています。つまり「調整役として期待されたが、結局は調整しきれなかった」という否定的な評価が存在します。
結局戦争を止められなかった責任
阿部の名は「戦争を終わらせようとした首相」として語られることが多い一方で、結局のところ戦争を止めることはできませんでした。むしろ日中戦争は泥沼化し、日本はさらに戦争の深みにはまり込んでいきました。
この点について「止めようとした意思はあったが、止められなかった以上、結果的に責任を免れない」とする批判も根強いです。歴史的評価においては、功績よりも「無力さ」に重点を置く見方も存在します。
近年研究・見直しの動向
歴史学者の新説・文献取り込み
戦後長らく、阿部信行は「短命で成果を残さなかった首相」として軽視されがちでした。しかし近年の研究では、阿部が当時の国際環境や軍部圧力の中で「どのように戦争終結を模索したか」に焦点を当てる学説が増えています。
新たに発掘された公文書や回想録などから、阿部が米英との交渉や戦争縮小に一定の可能性を探っていたことが明らかになりつつあり、「戦争責任論の中で再評価されるべき存在」とする見解も出ています。
大衆向け評価と認知度の変遷
大衆的な認知度の面では、阿部信行は他の首相(例えば東條英機や近衛文麿)に比べると知名度が低く、教科書や一般向け書籍でも大きく扱われることは多くありません。
しかし近年では、テレビ番組や歴史解説書で「戦争を止められなかったが、止めようとした首相」として紹介される機会が増えており、一般層の間でも再評価の動きが広がりつつあります。これにより、「阿部信行 評価」に関する情報は、従来の否定的評価から「限界を抱えた調整型の首相」という中間的な理解へと移行しつつあるといえます。
内閣時代のエピソードや逸話
- 阿部信行は、軍部との関係が難しかったことで知られています。彼は軍部の圧力に屈しながらも、戦争回避の努力を続けました。
- また、辞任後も静かに過ごし、派手な行動を取らなかった点が彼の人柄を示しています。
関連資料や史料に見る阿部信行
- 国会図書館や国立公文書館には、阿部内閣時代の議事録や政策に関する資料が保管されています。これらは彼の政治的意図を理解する上で貴重です。
まとめ:阿部信行の評価をどう捉えるか
阿部信行の評価は、功績と限界が交錯しています。穏健派首相として外交的な出口を探ろうとした点は功績とされる一方、戦争を止められなかった結果責任から批判も免れません。
ただし、近年の研究は彼の努力や意図に光を当て、「無力な首相」から「時代の制約の中で抗った首相」へと評価の幅を広げています。阿部の存在は、日本が戦争の泥沼へ向かう中で失われた「別の可能性」を象徴するものとして捉えることができるでしょう。
まとめ:阿部信行はどのように評価すべきか
以下は阿部信行をめぐる主要な観点を整理した総括です。功績と限界を分けて示しつつ、読者が結論を判断しやすいようにポイントを明確にします。
戦争終結をめざした“挑戦者”という視点
ポイント要約(結論):阿部は「積極的に戦争を仕掛けた強硬派」よりは「戦線の拡大や日米英との全面対立を避けようとした穏健派」と評され、その姿勢をもって「戦争終結をめざした挑戦者」とみなす見方がある。だが「終結を実現したか」という点では否定的評価が支配的である。
解説:
- 阿部内閣(1939年8月〜1940年1月)は、日中戦争の収拾や欧州戦争(第2次大戦)への不介入表明を重視する方向を示した。欧州戦争への不介入声明や、日米関係の緊張回避を志向した点は、後世に「戦争拡大を止めようとした意図」があった証拠として取り上げられることが多い。
- ただし「太平洋戦争(1941年開戦)の終結を直接目指した人物」という描き方は史実に即して誤解を生みやすい。阿部の首相在任は1939〜40年であり、太平洋戦争開戦(1941年)以前の段階で戦線拡大の回避や日米関係悪化の阻止を志向したという評価がより正確である。
要するに「挑戦者」のラベルは、『拡大を抑えようとした意思』を評価する立場の言い方であり、実際の成果(戦争終結)を求める評価とは分けて考える必要がある。
現実主義者・調整型政治家としての意義
ポイント要約(結論):阿部は軍人でありながら特定の派閥に強く結びつかない“調整役”的性格をもち、国内の経済統制や外交的「損害の最小化」を目指した。そうした現実主義は短期的には効果をあげにくかったが、「極端な軍国主義の一方向化」を必要最小限に抑える役割を果たしたとの評価がある。
解説:
- 出自と軍歴から来る知見で軍の内部事情を理解しつつ、内閣としては経済統制(価格等統制令など)や外交面での衝突回避策を打とうとした。これらは“実務的・現実対応”的な政策特徴である。
- また「無色性(派閥に偏らない首相)」としての登用は、軍部・政党・宮中の間の調整役を期待されてのことだった。期待どおり“極端派”を完全に排する力があったわけではないが、政治的緩衝材としての意義は一定と評価できる。
実務面の例としては、貿易・物価など経済運営への介入や、日米交渉改善の試み(外交人事の登用など)が挙げられる。成功度は限定的だが、「戦略的に拡大を抑える選択肢」を選んだ点は評価に値する。
限界と責任をどう見るか
ポイント要約(結論):阿部の「穏健さ」は長所でもあるが、軍部の圧力をはね返す実行力や強いリーダーシップが不足していた点は明確な欠点であり、結果的に戦線縮小や戦争回避を実現できなかった責任は免れない。
解説:
- 実際に阿部内閣は短命(約4か月)で終わり、軍部の反発や政党・国会での攻勢を抑えきれず退陣に追い込まれた。これが「調整型ではあるが決定力に欠ける」という評価の根拠である。
- 歴史的責任の議論としては二層ある:
- 意図・姿勢の評価(戦争拡大を避けようとした点は肯定できる)
- 結果責任(実際に終戦に向かわせることができなかった点は厳しく問われる)
これらを分けて考えることが重要で、単純に「善人/悪人」で切るべき問題ではない。
※なお、歴代内閣の短命ワーストランキングを以下の記事で紹介しています。
歴代総理大臣の在任期間ランキングワースト:ワーストの理由(背景)や短命政権の共通事項とは?
簡単なまとめ

- 阿部信行は「戦線の拡大を避け、日米英との全面対立を回避しようとした現実主義的な首相」として評価できる。参考:小説丸「阿部信行」
- 同時に、軍部や時代の構造的制約により、実行力を発揮できず退陣に追い込まれた。結果責任は無視できない。
- よって「戦争終結をめざした“挑戦者”的側面」と「実現力不足による責任」という二つの視点を併存させて評価するのが妥当である。
Q&A
Q1: 阿部信行はどのような人物ですか?
A: 阿部信行は1875年に石川県で生まれ、軍人として日清戦争や日露戦争に従軍後、1939年から1940年まで内閣総理大臣を務めた政治家です。
Q2: 阿部信行内閣の特徴は何ですか?
A: 阿部内閣は、戦争回避と内政の安定を目指しましたが、軍部の影響力が強まる中で十分な成果を挙げることはできず、140日という短命に終わりました。
Q3: 阿部信行の外交方針はどのようなものでしたか?
A: 阿部信行は英米との関係改善を目指し、戦争拡大を抑える努力をしました。しかし、軍部の圧力により、その方針を実現するのは困難でした。
Q4: 阿部信行の功績は評価されていますか?
A: 戦後の歴史家からは、戦争を拡大させないための努力が評価されていますが、時代の影響を受け政策実現に至らなかった限界も指摘されています。
Q5: 阿部信行を知るための参考資料はどこで入手できますか?
A: 国立公文書館や国会図書館のデジタルアーカイブに、阿部信行に関する議事録や史料が保管されています。


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