軍部大臣現役武官制は、明治時代から昭和初期にかけて日本の内閣と軍部の関係を規定した重要な制度です。この制度により、陸軍・海軍大臣は現役の軍人でなければならず、軍部が政治に大きな影響を与える結果を招きました。
制度の導入を推進した山縣有朋、廃止を決断した山本権兵衛、そして再び復活させた広田弘毅といった歴史的人物が、この制度の運命を左右しました。
本記事では、軍部大臣現役武官制の歴史、廃止と復活の背景、そして戦後日本への教訓を詳しく解説します。
軍部大臣現役武官制とは?制度の概要と導入の背景
まず、軍部大臣現役武官制の概要を解説します。
大日本帝国憲法との関係:軍部大臣現役武官制と天皇大権
軍部大臣現役武官制は、大日本帝国憲法(1889年制定)の下で設けられた制度で、特に天皇大権との関係で重要な役割を果たしました。
- 大日本帝国憲法第4条では、天皇が統治権の総攬者として、軍事指揮権(統帥権)を直接掌握することが定められていました。
- 第11条では、陸海軍の指揮・統帥権は天皇に属するため、政府や議会が軍事に干渉することは制限されました。
この憲法体制のもと、陸軍大臣と海軍大臣は、天皇の名の下で軍を指揮する現役の将官に限定され、軍部が内閣や議会から独立して行動することが可能となりました。
軍部大臣現役武官制の基本的な仕組み
軍部大臣現役武官制は、内閣の陸軍大臣および海軍大臣に現役の軍人、特に現役の「将官」(少将・中将・大将)を任命することを義務付けた制度です。ここで「現役」とは、軍務に従事している現職の軍人を指し、退役した者や予備役、後備役の軍人は任命の対象外でした。
この仕組みにより、現役軍人が内閣の要職を占めることになり、軍部の独立性が高まりました。大臣が辞任し、後任の現役将官が推薦されない場合、内閣は陸軍・海軍大臣を欠くため、憲法上の要件を満たさず、内閣総辞職を余儀なくされるという問題を抱えていました。
これは、軍部が内閣に対して強い影響力を持つ要因となりました。
制度導入の目的と背景
軍部大臣現役武官制は、明治憲法(大日本帝国憲法)下での軍事と政治の関係を規定するために導入されました。
明治憲法では、天皇が陸海軍を直接統帥する「統帥権」を有し、軍部は政府から一定の独立性を持っていました。
第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
国立国会図書館より引用

山縣有朋をはじめとする軍人出身の政治家たちは、軍部が文官(非軍人)の影響を受けず、独立した決定を行える体制を構築することを目指しました。特に、国防政策や外交問題において、軍部の意見が政府内で十分に反映されるようにすることが重要視されました。
こうした背景には、当時の国際情勢や、日清戦争・日露戦争を経て、日本の国防力を強化する必要性もありました。
軍部がこの制度をどのように利用したか
軍部は、この制度を内閣への圧力手段として効果的に利用しました。代表的な事例が、第二次西園寺公望内閣(1912年)です。西園寺内閣が軍事予算を削減しようとした際、陸軍は後任の陸軍大臣を推薦せず、内閣は総辞職に追い込まれました。
このように、軍部が大臣の推薦を拒否することで、内閣を崩壊させることが可能だったのです。
また、満州事変(1931年)や日中戦争(1937年)の際には、軍部が内閣の政策決定を主導し、強硬な軍事行動を取ることができました。この制度によって、軍部は内閣に対する優位性を確立し、次第に軍部独裁の要因となっていきました。

なお、満州事変については以下の記事でくわしく解説しています。
満州事変とは?分かりやすく解説|いつ、どのように起きたか、そのきっかけと結果
制度がもたらした政治的・社会的影響
軍部大臣現役武官制は政権や日本社会全体に大きな影響を与えました。
【参考】
テンミニッツTV・山県有朋がつくった軍部大臣現役武官制がやがて大問題に
テンミニッツTV・軍部大臣現役武官制の復活…広田弘毅内閣が変えた国の運命
内閣総辞職の原因:軍部の推薦拒否と政治的不安定
軍部大臣現役武官制は、軍部が陸海軍大臣の人事権を握ることで、内閣を揺るがす力を持っていました。
最も象徴的な例が、1912年(明治45年)の第2次西園寺公望内閣の総辞職です。
- 当時、陸軍大臣の上原勇作が辞任した際、西園寺首相は後任に現役の将官を任命しようとしましたが、陸軍が後任を推薦しませんでした。
- この結果、内閣は陸軍大臣を任命できず、内閣運営が不可能となり、総辞職に追い込まれました。
このように、軍部大臣現役武官制は軍部が内閣を意図的に倒す手段として機能し、政治的不安定を生む大きな要因となりました。

なお、西園寺公望については以下の記事でくわしく解説しています。
内閣総理大臣・西園寺公望の生涯と業績:自由主義の政治家と立命館大学の開祖
社会への影響:軍部の政治介入と国民生活
軍部が政治に介入することで、国民生活にも次第に影響が及びました。
- 軍部主導の政策によって、国家の資源や経済は軍事優先で配分され、社会インフラや教育、福祉といった分野は後回しにされました。
- また、軍国主義教育が推進され、国民は戦争への協力を強制される環境が形成されました。
- 軍部が政府の重要な決定を支配することで、自由な言論や市民の権利が抑圧される結果にもつながりました。
比較分析:他国の軍事と政治の関係
日本とドイツ(ナチス政権)の比較
同時期のドイツでは、ナチス党と軍部が密接に結びつき、アドルフ・ヒトラーが国防軍を政治的手段として利用しました。
- ナチス政権は1934年に国防軍の忠誠をヒトラー個人に誓わせることで、軍事と政治を一体化しました。
- ドイツでは、軍部は政府の一部として権力を集中し、全体主義体制を確立しました。
日本とイタリア(ムッソリーニ政権)の比較
一方、イタリアのベニート・ムッソリーニは、軍部を完全に統制する形でファシスト政権を維持しました。
- イタリア軍は政治に直接介入することは少なく、ムッソリーニが軍事政策を主導しました。
日本の独自性
日本では、軍部大臣現役武官制が軍部の独立性を保障し、内閣と議会が軍事政策に関与できない点で、ドイツやイタリアとは異なる特徴を持ちました。
- 天皇の権威を背景に、軍部が独自に行動する点が日本の特徴です。
軍部大臣現役武官制の成立から廃止までの年表
軍部大臣現役武官制は成立→廃止決定→復活→廃止と変遷しました。その様子を年表形式で解説します。
1878年(明治11年):山縣有朋による提案
山縣有朋が陸軍・海軍大臣は現役の武官(軍人)から任命すべきだと提案。
この背景には、西南戦争後の軍部の強化と、文民による軍事介入を防ぐ目的があった。
1900年(明治33年):山縣内閣で軍部大臣現役武官制の正式導入
第2次山縣有朋内閣が、軍部大臣現役武官制を正式に導入。
- 陸軍大臣と海軍大臣は現役の将官(少将以上)からのみ任命されるようになる。
- 目的:軍事の専門性を確保し、文民統制を排除することで軍の独立性を高める。
なお、山縣有朋については以下の記事で詳しく解説しています。
3代内閣総理大臣・山縣有朋は何をした人か:日本近代政治・軍事体制の確立に貢献した指導者を解説
1912年(明治45年):西園寺内閣と陸軍の対立
第2次西園寺公望内閣が、陸軍大臣を推薦できず、内閣が総辞職に追い込まれる。
- 陸軍は後任大臣の任命を拒否し、現役武官制が内閣運営の足かせとなることを示した重要な事件。
- この事件をきっかけに、制度廃止の動きが強まる。
1913年(大正2年):第一次山本権兵衛内閣で制度廃止
第一次山本権兵衛内閣が、軍部大臣現役武官制を廃止。
- 陸海軍大臣を現役でなく、予備役や退役の軍人からも選任可能にする。
- 目的:軍部の政治介入を抑え、内閣の安定運営を図るため。
軍部の反発や内外の緊張により、完全な安定には至らず。
なお、山本権兵衛については以下の記事で詳しく解説しています。
内閣総理大臣・山本権兵衛の生涯と業績:軍部大臣現役武官制の廃止に尽力した軍人政治家の功績
1936年(昭和11年):広田弘毅内閣で制度復活
二・二六事件直後に成立した広田弘毅内閣が、軍部との対立を避けるため、軍部に妥協する形で制度を復活
- 軍部が政治的に強大化し、軍事政権化への一歩を進める。
- 日独防共協定締結や、軍部の政治的発言力を強化するきっかけとなる。
なお、広田弘毅については以下の記事で詳しく解説しています。
広田弘毅とは?内閣総理大臣としての功績、東京裁判での裁かれた理由、軍部大臣現役武官制の復活まで徹底解説
1941年(昭和16年):東條英機内閣で制度の影響が最高潮に
軍部主導の政治体制が最高潮。。東條英機は陸軍大将であり、総理大臣と陸軍大臣を兼任することで、内閣は事実上、軍部の独裁状態。
- 太平洋戦争開戦に向け、文民の政治関与がほぼ排除される。
- 現役武官制が内閣を軍事中心に変え、戦争遂行のための政治体制を確立。
戦局が悪化するにつれ、軍部内でも統制が取れなくなり、東條内閣は崩壊。この過程で、制度はもはや機能を果たさなくなりました。
1945年(昭和20年):敗戦により制度廃止
日本の敗戦により、軍部大臣現役武官制は完全に廃止。
- 連合国軍総司令部(GHQ)による占領政策の一環として、軍部の解体と文民統制の確立が進められる。
- 日本国憲法(1947年施行)では、文民統制が明確に規定される(軍事と政治の分離が明文化)。
制度廃止後の影響と現代への教訓
戦後の政治と軍事の分離
1945年の敗戦後、軍部大臣現役武官制は廃止され、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の指導の下で軍事と政治の分離が進められました。
- 1947年に施行された日本国憲法第9条では、戦争放棄と戦力の不保持が規定され、軍事と政治の関係は大きく変わりました。
- 自衛隊が創設された後も、文民統制(シビリアンコントロール)が厳格に維持されています。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
日本国憲法 第9条より引用
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
自衛隊と政治の関係
現在の日本では、自衛隊は防衛大臣の管理下にあり、政治と軍事の分離が法的に確立されています。
- 防衛大臣は必ず文民(非軍人)から選ばれ(日本国憲法 第66条 第2項)、自衛隊の運用についても国会の承認が必要です。
- この制度により、過去の軍部大臣現役武官制の教訓が生かされ、軍事力が政治を支配する危険性は排除されています。
現代への教訓
軍部大臣現役武官制は、軍事と政治の関係を誤ると国家が不安定になることを示しています。
現代日本では、平和主義と民主主義の維持を重視し、過去の過ちを繰り返さないように注意が払われています。
軍部大臣現役武官制に関するQ&A
Q1: 軍部大臣現役武官制とは何ですか?
A1:
軍部大臣現役武官制は、大日本帝国において陸軍・海軍の大臣が現役軍人であることを義務付けた制度です。この制度は、軍部が内閣において強い影響力を持ち、政治的に軍部の意見が反映されやすくなることを目的としていました。
特に、軍事と政治を密接に結びつけることで、国家の軍事力の強化と独立性を強調することが狙いでした。
Q2: なぜ山縣有朋は軍部大臣現役武官制を推進したのですか?
A2:
山縣有朋は、明治時代の日本において軍事力を強化し、国家の安定を図るためにこの制度を推進しました。
山縣は、日本が近代国家として成長する中で、軍部が政治的にも強い影響力を持ち、国家運営において重要な役割を果たすべきだと考えました。軍部の独立性を保障することで、国家の安全保障や近代化を進めるための手段として、この制度を導入しました。
Q3: 第一次山本権兵衛内閣が軍部大臣現役武官制を廃止した理由は何ですか?
A3:
第一次山本権兵衛内閣は、軍部大臣現役武官制を廃止することで、内閣と軍部の関係を見直し、政治的安定を図ることを目的としました。
山本権兵衛は、軍部が政治に過度に干渉することを防ぎ、内閣がより独立して運営できるようにするために、この制度の廃止を決断しました。軍部の政治的影響を抑え、政府の効率的な運営を目指したのです。
Q4: 広田弘毅内閣が軍部大臣現役武官制を復活させた背景は何ですか?
A4:
広田弘毅内閣は、1936年に軍部大臣現役武官制を復活させました。この決断は、日中戦争の拡大と軍部の影響力が増す中で、軍部との関係を強化し、政権の安定を図るためでした。軍部からの圧力に応じて、内閣が軍部との協力関係を築く必要性を感じ、制度を復活させました。
これにより、軍部の影響力が再び強まり、政治における軍の役割が強化されました。
Q5: 軍部大臣現役武官制は戦後どのように廃止されましたか?
A5:
軍部大臣現役武官制は、第二次世界大戦の敗戦後、日本が占領下に置かれた際に完全に廃止されました。新しい日本国憲法が施行され、軍部と政治の分離が徹底されるようになりました。この廃止により、日本では軍部が政治に介入することが禁止され、平和主義と民主主義が強調されるようになりました。
戦後、日本の政治は文民統制のもとで運営され、軍事力の政治への干渉を防ぐ仕組みが確立されました。
Q6: 軍部大臣現役武官制の廃止が現代日本に与えた教訓は何ですか?
A6:
軍部大臣現役武官制の廃止は、現代日本において軍事と政治の分離が重要であることを教訓として残しています。戦前、軍部の政治への過度の介入が戦争に繋がったことを反省し、戦後は自衛隊と政治の分離が徹底されました。
現在でも、軍事力が政治に影響を与えないようにするため、文民統制が維持されており、平和主義が基本的な国家方針として重要視されています。この教訓は、民主主義と安定した政治体制を守るために欠かせないものとされています。
まとめ
軍部大臣現役武官制は、日本の政治と軍部の力関係を象徴する制度でした。
この制度が復活した背景には、軍部の政治介入が深まり、昭和初期の日本を軍国主義へと進めた経緯があります。広田弘毅内閣がこの制度を復活させたことは、内閣の軍部への依存を深め、最終的に日本を戦争に向かわせました。
戦後、この制度は完全に廃止され、軍の政治介入が制限されることになりました。現代の日本においても、政治と軍事の関係を慎重に考慮する必要性を示す重要な教訓となっています。
【参考】
国立公文書館
テンミニッツTV・山県有朋がつくった軍部大臣現役武官制がやがて大問題に
テンミニッツTV・軍部大臣現役武官制の復活…広田弘毅内閣が変えた国の運命
国立国会図書館
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